熊谷直孝ってすごい!

5月21日は小学校開校の日。

1869年5月21日、京都市に日本最初の近代小学校「上京第二十七番組小学校」と「下京第十四番組小学校」が開校したことに由来します。この2校は公的機関によってつくられたものではなく、商人・熊谷直孝の私財や敷地の寄付、また周辺住民が多くの寄付や献金を行って完成したものでした。それをきっかけに、地域が一致団結して64の小学校が誕生しました。これは国が「学制」という学校制度をを定める3年も前の出来事でした。

 

当時の小学校は、ふつうの民家と同じような大きさで、運動場もなく、町会所であり、行政の出先機関、保健所なども兼ねていて、交番や火の見櫓もあったそうです。

 

ちなみに、最初の上京第二十七番組小学校はその後、明治6年に新築移転して、柳地(りゅうち)小学校と名前が変わり、さらに戦後の新学制で御池(おいけ)中学校となりました。下京第十四番組小学校修徳(しゅうとく)小学校と公明が変わりましたが、1992(平成4)年に統合のため廃校となっています。

 

小学校の開校記念日というのは、どこも学校単位でお祝いするようですが、「小学校開校記念日」のお祝いというものは無く、もはや肝心の京都市でも日本一早い小学校開校を記念した行事はないようです。

今は柳池中学校の正門横に建っている「日本最初の小学校」という石碑だけがその名残をとどめています。



商人・熊谷直孝とはどんな人なのでしょうか?

父直恭(なおやす)と共に早くから頼山陽らと親交があり、勤王派町人として知られました。父直恭(鳩居堂4代目当主)は、種痘所「有信堂」を設け、天保の飢饉に際しては施粥や施療などの救済活動を行い、天明の飢饉ののち財政難で点火が中止されていた大文字焼きの再興を試みるなど、私財を投じて京都の公益事業に取り組んでいました。

後の七代目当主となる長男直孝は、尊皇攘夷派の志士や勤王派公家と交わり、倒幕運動に資金的援助をするなど、国事に奔走していました。
このため、鳩居堂の営業は、5代、6代と直恭の弟直留などが行いました。

安政6年(1859)のコレラ流行でも、私有地を提供して病院世話場を設けた直恭は、そのために自らも感染して死亡したと伝わりました。禁門の変で、父直恭が設けた種痘所が焼失すると、これを再興したのは直孝で、父の公益事業を引き継いでいきました。

明治維新に際しては、新政府の資金調達に1500両を供出したといわれました。
維新後は、京都大年寄として、京都の復興・近代化のための諸事業を中心となって担うようになりました。

私財と土地を提供して、全国最初の小学校(上京第二十七番組小学校=柳池(りゅうち)校)を明治2年(1869)に開校させ、そして京都では維新後2年もたたぬうちに、市中に64もの小学校が網羅されたのである。


日本の近代化を推進しようとした福沢諭吉をも驚かせ、全国の小学校制度の先駆けとなりました。